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健康・生活改善

【末期ガン】余命1カ月の闘病記

突然だが、あなたは余命1カ月と急に言われたらどうするか。

 

あなたの大切な人が実は末期ガンで、あと1か月しか生きられないと言われたらどうするか。

 

今からちょうど1年前の2023年7月21日、俺の親父は末期ガンとの闘病の末に亡くなった。

  

この記事ではそんな末期ガンを宣告されても最後まで生きることを諦めなかった俺の親父の生きざまを通して、もしあなたがガンになってしまった時、あなたの大切な家族や友人がガンになってしまった時に一体どうすればいいのか、そして後悔のない選択をしてほしいという願いを込めて書いていくから、ぜひ最後まで見ていってほしい。

 

 

2024年1月 正月帰省

まずは正月に実家に帰った時の話にはなるんだけど、オヤジがまさかガンを患っているなんで誰も知る由もなく、本人もいたって元気にしていた。

 

ただ、あとあと母親に聞いてみると、背中や腰が痛いんだっていう話をしていたり、近所にいきなりステーキができたから行ってみたけど、ほとんど食べられなかったっていう話をしていたから、本人は言わなかったけど、結構辛かったんじゃないかなと思う。

  

かかりつけ医に診てもらう

あまりにも腰痛がひどいから、かかりつけの内科を受診したんだけど、原因はわからず。

 

それで整形外科を受診したらあらびっくり、背骨の一部が壊死している。

 

それは腰が痛いに決まっているよね。

 

しかも壊死してしまっている原因がガンかもしれないっていうんだから大変だ。

 

4月25日 親父からの電話

それで4月25日に親父から急に電話があり、ガンかもしれないと伝えられたんだ。

 

もちろんショックだったし、あんなに元気だった親父がガンにかかってしまうなんて悲しかったけど、この時はまだ気持ちに余裕があったんだ。

 

だってガンって言っても、腰の部分だし、まだすぐにどうこうなるなんて思わなかったし、思いたくもなかったんだ。

 

ただこの時は、現実から目を背けて親父の症状が軽症であってほしいとただただ願うしかなかったんだ。

 

5月1日 検査入院

そして月が替わった5月1日。

 

地方の中核病院でガンの精密検査のために親父は検査入院をした。

 

俺の親父はガンの可能性が高いけど、この時点では体のどの部分にガンがあるのかはわかっていなかった。

 

もしかしたら腰の部分だけかもしれないし、他の部分に病巣があるのかもしれない。

 

ガンの治療は病巣がどこにあるのかが特定できないとどんな治療を行うのかを決められないから、この検査は入念に行わなければならないんだけど、実際にこの結果が出るのは1か月後の5月30日になるんだ。

 

親父に残されたわずかな時間の中で、あまりにも長すぎる時間だった。

 

入院はできない

しかも検査入院が終わったらそれ以降は通院をしなければならない。

 

この時点で親父はもうベッドで寝た切りの生活だし、自力で起き上がることも難しい。

 

当時つきっきりで介護をしていた母の心労は相当だった。

 

ケアマネージャー

それでも町が手配してくれたケアマネージャーっていう病院との調整とか、介護用品の手配とか、公的保険手続きなんかを手伝ってくれる人がいたから本当に助かった。

 

あと、親父はこの後ホスピスっていう施設に移ることになるんだけど、患者が多くて中々空きが出ない中、このケアマネさんのツテで転院先を見つけてくれたのは本当にありがたかった。

  

日に日に痩せていく親父

話は戻って検査入院をした後も通院は続けることになるんだけど、その間もガンの結果はわからないし、抗がん剤の治療もしてくれないんだ。

 

だから、毎日のようにガンではないことを祈りつつ、ガンであったとしても軽い症状であってくれと願い続けたんだ。

 

でも日に日に親父の体力がなくなっていくことがわかるし、目に見えて痩せていくのがわかった。

  

アイスが好物になる

食事も最初はまだご飯を食べることができたんだけど、最後の方はアイスとかゼリーしか食べれなかった。

 

そうすると栄養をとることができないからさらに痩せていくという負のループに陥ってしまうんだよね。

 

そんなとっくに限界の中でも通院をさせつづける病院の対応は本当にどうなのかと当時は思っていました。

  

5月23日 体調悪化・入院

そして5月23日にケアマネさんが訪問をしてくれた時に、そんな親父の姿をみてすぐに救急車を呼んでくれました。

 

通院をしていても家に返されてしまうから、中々救急車を呼ぶことができなかったんだけど、ケアマネさんがあの時呼んでくれなかったら、親父はそのまま死んでしまっていたかもしれなかった。

 

そして病院に運ばれた親父はそのまま入院になりました。

 

血液検査をしたところ、カルシウムの値が異常に高い状態だった。

 

がん細胞が骨を破壊してしまうので、そのせいでカルシウムの血中濃度があがってしまうらしい。

  

5月30日 末期ガン(ステージ4)

そして5月30日、診断結果が出た。

 

病名は「胆かんガン」、肝臓の奥の方にできる見つかりずらいガンだそうです。

 

そして、腰、肺への転移が確認された。

 

ステージ4、いわゆる末期ガンだ。

 

そして、余命は1か月が告げられた。

 

生きるか死ぬかの選択肢

主治医の先生は矢継ぎ早に抗がん剤治療をするか、治療を諦めて緩和ケアをするか聞いてきた。

 

車イスに乗りながら聞いていた親父は「やっぱりそうだよね」って言った後、「すぐに治療してくれ」と言った。

 

俺なんかはショックで何も話すことができなかったんだけど、そんな状況でも気丈に振舞った親父は本当にカッコよかった。

 

ただ、一度も俺たちの前で涙を見せたことのなかったあの強いオヤジでも泣いていたのだから、本当に悔しかったんだと思う。

 

抗がん剤治療開始

そしてこの日から抗がん剤の飲み薬による治療が始まったんだけど、その薬の量がハンパじゃないんだよね。 

 

お茶碗にお米の代わりに薬が入っているみたいな感じ。

 

それでこの薬を飲むのがまた辛そうなんだよね。

 

体力が落ちてモノを飲み込む力が弱くなっているから、固形物を飲み込むのがめちゃくちゃ大変になるんだ。

 

そしてこんな状況になっても病院は入院をさせてくれなかったから、本当に病院と言うか主治医のことは検査に時間がかかったことも相まって信用できなかったよね。

    

6月14日 体調悪化・入院

そして半月が過ぎた6月14日、親父は意識不明になって病院に運ばれた。

 

一命はとりとめたが、医者はこういった。

 

「抗がん剤治療はもうやめた方がいい。もうこれ以上は快復の見込みはない。」

 

「今後容体が悪化した時は、手術をしても患者をイタズラに苦しめるだけなので、延命治療をしないことに同意してください。」

 

そんなこと言われても「はい、いいです」なんてすぐに言えるわけないよね。

 

緊急家族会議

だからちょっと時間をくださいと言って、緊急の家族会議を開いた。

 

もちろんみんな親父に少しでも長く生きてもらいたかった。

 

でも、親父はもうすぐ死んでしまうというのは誰が見ても明らかだったし、延命治療をして体を切り刻んだとしても長くは生きられないのであれば、安らかにそのまま逝かせてあげましょうというのが我々の結論だった。

 

6月19日 抗がん剤治療、延命治療断念

そして、そのことを伝える面談の前に親父と面会をすることができた。

 

2023年6月は、コロナがもう下火にはなっていたんだけど、医療機関の制限は厳しくて、面会は一日15分、二人までだった。

 

今日死んでしまうかもしれない親父に15分しか会えないなんて何とかならないのかってお願いしたんだけど、ルールだから無理の一点張りだった。

 

これはもうしょうがないと納得せざるを得なかった。

  

親父との面会

そして、それまで意識の無かった親父に声をかけると、反応をしてくれたんだ。

 

「んんんー!んんんー!」って。

 

もう二度と意識が戻らないって覚悟をしていたから、めっちゃ嬉しかったよね。

  

親父が伝えたかったこと

それでさ、親父に「頑張って!」とか「意識があって良かった!」とか、話し続けるのよ。

 

でも、親父の反応は全部「んんんー!」なのよ。

  

んんんー!んんんー!

 

あぁ、わかった。

 

「終わり。終わり。」だ。

 

それがわかった瞬間涙が止まらなかったよね。

  

優しい終わり

親父は延命治療の判断でお母さんが迷わないように必死に伝えようとしてくれていたんだ。

 

親父はこんなにも自分が大変な時でもお母さんの事を一番に考えてくれる優しくて本当に強い父親だった。

 

だからその後の医者との面談の際に迷わず伝えることができたんだ。

  

奇跡的に回復した親父

そして、この後親父は奇跡的に体調が急回復した。

 

それまではベッドでうなっていることしかできなかったんだけど、次の日面会に行ったら普通に看護師さんと一緒にご飯を食べているんだからマジでびっくりした。

 

本人は「おお、来たか。」なんて呑気に言うから、親父らしいなって思ったよ。

  

6月23日 ホスピスに転院

そしてケアマネージャーさんの計らいで、親父はホスピスへ転院することができた。

 

親父が亡くなるまで、あと1か月のことです。

 

ホスピス

ホスピスっていうのはいわゆる緩和ケアというやつで、ガンの辛い治療はやめて、痛みや苦しみを和らげながら最後の時を迎えるための施設になる。

 

だからこの病院では、患者が最後にやり残りしたことをやる為の相談に乗ってくれたり、家族の意向も聞いてくれたりした。

 

俺たち夫婦は結婚式をやらなかったから、親父に花嫁花婿の姿を見せてあげたいって相談をしたら、快く引き受けてくれた。

 

6月28日 結婚式

ナースステーションの周りのちょっと広くなっているスペースで、ちょっとした披露宴を挙げさせてくれたんだ。

 

更衣室でドレスとスーツに着替えて外に出ると、車いすに乗った親父と付き添うお母さん、親族、そしてスタッフの皆さんが拍手で出迎えてくれた。

 

ホワイトボードにHAPPY WEDDINGって風船で飾り付けをしてくれて、本当に忙しい中こんなに良くしてもらって申し訳なさと嬉しさで一杯だった。

  

精一杯のありがとう

その後は俺から育ててくれた二人に手紙を読みました。

 

スタッフの方がエレクトーンを生で弾いてくれました。

 

恥ずかしくて言えなかったけど、本当にありがとうと、精いっぱいの感謝を伝えました。

 

その時の思い出と写真は一生の宝物です。

 

スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。

面会条件の緩和

新しい病院に移ってから、面会は1日1時間4人までに緩和された。

 

親父は1日でも早く元気な姿を見せたいと言って、ゼリーやアイスを良く食べて、車イスに乗る訓練を家族が面会から帰ったあとにしていたらしい。

 

親父は最後まで生きることをあきらめなかったんだ。

   

アイスは救いの神

ガン終末期の患者がよく好んで食べるのが「アイス」だ。

 

俺の親父の場合はクーリッシュっていうアイスがあるんだけど、それを差し入れに持っていくと、本当に美味しそうに食べるんだよね。

 

「あー美味しい。極上だ。」

 

ほとんど何も食べることができない中でも、そうやって親父を笑顔にしてくれたアイスは、まさに救いの神だった。

  

足をさすってあげると喜ぶ

面会に行くと毎日のように足をさすってほしいと言われた。

 

ずっと同じ姿勢で寝ているから、どうやらむくんだりしてしまうらしい。

 

だからさすってあげたり、揉んだり、足を持ち上げてあげると気持ちよさそうにしていた。

 

医療麻薬

そういった痛みや苦しみを和らげるために、緩和ケアでは医療麻薬を使っている。

 

これを使わないと患部が本当に痛くなるらしい。

 

でも、ガンが進行するごとに麻薬の量もドンドン増えるから、親父も面会の時以外は寝ていることが多くなったし、面会中も段々と受け答えが難しくなっていった。

 

だから、親父がホスピスに移ってから亡くなるまでの約1か月の時間の中で、まともに会話ができたのは最初の2週間くらいだったんだ。

 

そして親父は寝たきりになった。

 

自分で痰を出すこともできないから、いつもすごく苦しそうにしているのを見ると本当に辛かった。

 

そしていよいよいつ死んでもおかしくない状態だと医者から言われます。

   

7月12日 夜間付き添い開始

家族で一人だけ一日付き添いができることになった。

 

これは親父がいつ亡くなっても、誰かが側に居られるようにという配慮だった。

 

17時になったら通常は面会時間が終了になるんだけど、それ以降も22時までは病室で付き添って良いことになった。

 

親不孝な息子

俺も1回付き添うことができたんだけど、二人きりの病室で何も言わない親父に向かってただただ話しかけた。

 

「今日はこんなことがあった。」

 

「昔、あんなことをしたよね。」

  

「お父さんとの約束、絶対守るよ」

 

こんななんてことないことを話す時間なんていくらでもあったのに、何で今更思い出したように話すのか。

 

本当に俺はバカで親不孝な息子だと思う。

  

眠れない夜

そして22時の消灯時間になると、家族控室のベッドで翌朝まで寝ることになるんだけど、病室の近くにあるからバイタルサインモニターっていうベッドサイドで心拍数とか呼吸とか血中酸素量とかを測る機会があるんだけど、異常な数値が出ると「ピコーン、ピコーン」って鳴るんだよね。

 

それが控室まで良く聞こえるんだ。

 

それで看護師さんが走る音とかも聞こえるから、本当にドキドキしながら一夜を過ごしたんだ。

   

7月21日 逝去

そして2023年の7月21日、19時14分、母と二人だけの病室で親父は亡くなった。

 

享年70歳。

 

カッコつけたがりの父

この日に遠方で働いている兄弟が帰ってきて昼に会う事ができたらから、親父はこの日まで頑張って生き続けてくれたんだと思う。

 

最後の時は家族が帰った後に、母と二人っきりで逝くのが、カッコつけたがりの親父らしかった。

 

これが、親父の最後の生き様だ。

  

生きることを諦めなかった父

最初にガンの疑いがかかってから三カ月。

 

末期ガンの診断をされてからわずか2か月の出来事だった。

 

でも5月30日に余命1カ月の宣告を受けてから、親父は抗がん剤治療を頑張ってくれたし、ホスピスの先生も最初見た時はこんなに長く生きられるとは思っていなかったって言っていた。

 

だから親父は最後までガンと戦い続けて生きることを諦めずに頑張ってくれたんだ。

 

そんな親父のことを俺は本当に誇らしい。

 

まとめ

  

以上が俺たち家族の長いようでとても短い闘病記だ。

 

最後に蛇足ながら俺が伝えたい事を話させてほしい。

  

大切な人は今日死ぬかもしれない

俺がこの記事でまず伝えたいことは、あなたのお父さんやお母さんと話ができる時間っていうのは、思っている以上にずっと少ないということだ。

 

毎年正月には帰っている人でも、もし5年後に両親が死んでしまうとしたら、話せるのはあと何回だろうか。

 

身近な人だから、いつでも会いに行けると思っていると、あっと言う間にガンや病気、事故に会って亡くなってしまう。

 

お母さんを任せたぞ

俺の場合も、親父がガンって言われているのに、すぐに死ぬわけじゃないと思っていたし、本当に伝えたい事、話したい事っていうのも何だか不謹慎な気がして中々いう事ができなかった。

   

でも、そうこうしている内にあっと言う間に親父は話すこともできない体になってしまった。

 

おれが今でも後悔をしているのが、親父がそうなってしまう前に俺の目をまっすぐ見て、「お母さんのこと、任せたぞ」って言った時だ。

 

何で俺はあの時「まかせろ」と力強く言って親父のことを安心させてあげられなかったのか。

 

親孝行をしてほしい

 

だから、この記事を見てくれている人で、まだ親御さんが元気でいるならば、親孝行をしてあげてほしい。

 

そんな大した事じゃなくても構わない。

 

一緒に旅行をしたり、今日はこんなことがあった、昔あんなことがあったという話をするだけでいい。

 

家に帰れない人は電話だってかまわない。

 

いきなりそんなこと恥ずかしいかもしれないけど、もしかしたら、明日、あなたの大切な人はこの世にいないかもしれないんだ。

 

だから「ありがとう」を伝えてあげてください。

 

医療従事者に感謝

そして、親父や俺たち家族を支えてくれた医療従事者の皆さん、特にホスピスの先生、看護師の皆さん、支援してくれたケアマネージャーさん、本当にありがとうございました。

 

あなた達のおかげで、俺たち家族はガンと言う絶望の中でも残された最後の時間を幸せに過ごすことができました。

 

本当に、ありがとう。

 

最後に

そして最後に、俺たち家族のことをいつも笑顔にしてくれたお父さん、本当にありがとう。

 

あなたの守りたかったものは俺たち兄弟がしっかり守っていく。

 

だから、あの世でも神様達と酒を飲みながら安心して見ててほしい。

 

そして、この記事を最後まで読んでくれたあなた、本当にありがとう。

  

この記事があなたにとってのきっかけになってくれたら幸いだ。

 

  • この記事を書いた人

ジェームス

元公務員。既婚。ファイナンシャルプランナー。新人ユーチューバー。2024年6月「デイリーフォース」開設。23年にオヤジが突然の末期癌で死亡。時間は意外と短いことに気が付かされる。趣味は登山と野球。

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